阪神大震災11年:「書の中に娘の存在」 
     長女犠牲、命の足跡その後 /兵庫

 ◇止まった時計進めたい−−母親、11年間悲しみをとじこめて

 「命の足跡」という書を阪神大震災で亡くなった書道教室の教え子をしのび神戸市須磨区の書家、小阪美鈴さんが展示した、という記事を今年1月、兵庫地域面で書いた。遺族の連絡先が分からなくなっていたが、母親のAさん(39)から「うちの娘のことでは?」との電話が毎日新聞社にあった。震災で犠牲になった長女由美ちゃん(当時8歳)=仮名=が通っていた書道教室がまだ続いているなら訪ねてみたいという趣旨だった。Aさんは「震災の日、私のなかの『時計』は止まってしまった。今、少しでも前に進めたいと考えている」と語った。彼女の11年の「足跡」をたどった。【山本真也】

 95年1月17日、住んでいた神戸市東灘区の木造アパートは全壊した。Aさんは家族4人とがれきに埋まった。次々と近所の人に救出されたが、由美ちゃんだけが見つからないまま、Aさんは入院した。腰を2カ所、完全骨折する重傷だった。死を知ったのは、翌朝の新聞の犠牲者名簿だった。

 ベッドから身動きできない安静が続き、その間に葬儀は終わった。遺体は見ていない。由美ちゃんは震災前夜、「おやすみ」とあいさつし、隣室の夫の側で寝た。深夜、寝顔をのぞいた。それが最後の姿だった。いつまでたっても死の実感がわかなかった。

 約2カ月後に退院。家族が暮らす避難所に行った。毎日、ただ泣いてばかりいた。誰もが家を失い、家族を亡くした人もいた。自分だけが悲しいのではない、と考えると気持ちを言葉に出して言えなかった。

 由美ちゃんが卒業をするはずだった年、小学校に「卒業証書を出してほしい」とお願いに行った。校長は検討を約束したが、そのやり取りのなかで出た「いつまでも過去のことにこだわっていても……」という言葉に傷ついた。同級生が卒業してしまえば、もう由美ちゃんのことを覚えている人は学校にいなくなってしまう……。そんなふうに思えて言いようもない寂しさに襲われた。

 02年に離婚した。いろんなすれ違いがあったが、「娘の死をお互いに向き合って話せなかったのも一因」と言う。Aさんは震災1週間前に部屋の模様替えをしていた。由美ちゃんはその家具の下敷きになって亡くなったのでは、と自分を責め続けていた。夫も隣に寝ていた我が子を死なせた自分を責めているはずだった。お互いあの日何が起きたのか話すのを避けてきた。

 ある施設で介護の仕事をしながら、高校1年生の二女(16)と中学3年の三女(15)を育てている。姉と震災の記憶が鮮明な二女は小さいころ、ちょっとした物音に脅えた。中学生の時、震災を伝える施設「人と防災未来センター」(神戸市中央区)を学校で見学に行くという計画を抗議して中止させたことがある。姉を震災で失った少女が当時を振り返るという設定の上映があると聞き、心の傷を深めてしまうのを恐れたからだ。

 後日、二女から「お母ちゃん、私、あれ行ってもよかったで」と言われ、ショックを受けた。「あの時行かしていたら震災を乗り越えることができたかもしれない。私が由美の死を受け止めきれないから、あの子の『時計』も止めているのでは……」と考えるようになった。

 「命の足跡」の記事。1年も通っていなかった書道教室で、由美ちゃんのことを覚えている人がいるということが、うれしかった。2月のある日、教室を訪ねた。小阪さんとは面識はなかったが、会ったとたん、互いに涙があふれた。二女と同年代の女生徒らが書道に励んでいた。教室の場所は震災で移転していたが、由美ちゃんが確かにこの場所にいたような気がした。

 神戸市の繁華街のショーウインドーギャラリーに展示してある書「命の足跡」を娘2人と見に出かけた。「あの日失われた命があるが、魂は決して消えることはない」という小阪さんの思いを込めた作品だ。Aさんは「たった8年だけど娘は確かに生きて、この世に足跡を残している。書からそれを感じ取ることができました」と話す。
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